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神戸地方裁判所 昭和35年(行)21号 判決 1963年2月07日

原告 松井藤吉

被告 尼崎市農業委員会

主文

本件訴を却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一、申立

(1)  原告

「被告が昭和三五年四月一八日付で原告に対してした別紙目録記載の本件農地について農地法八条九条に基く手続はとらないとの決定を取消す。

訴訟費用は被告の負担とする」との判決

(2)  被告

一次的に主文同旨、一項につき予備的に原告の請求棄却の判決

二、原告の主張

(1)  本件農地は訴外井上昌子所有であり、原告は昭和初年以来これを小作している。

(2)  原告は、昭和三四年九月二日、被告に対し、本件農地が農地法六条一項一号に所有を禁じられている小作地であるから同法八条以下の手続(以下、単に買収手続という)をとるよう請求したところ、被告は、昭和三五年四月一八日、本件農地について原告請求の買収手続をとらない旨の本件決定をし、その決定は書面で、同月二二日、原告方に送達された。

(3)  しかし、本件農地は農地法六条一項一号に該当し、買収手続がとられるべきであるから、本件決定は違法である。

よつてその取消を求めるため本訴請求に及んだ。

(4)  農地法一条に記載された目的からみても、同法六条一項一号に該当する土地については買収手続は例外なく行なわれるべきであつて、同条項による該当があつてもなお行政機関が買収手続を開始するかどうかについて、裁量をはたらかせる余地はない。本件決定は自由裁量処分ではないのである。

しかも、本件農地が買収された場合には、原告はその耕作者であり、しかも自作農として農業に精進する見込みのある者であるから、農地法三六条により、第一順位の売渡相手方たる地位が決定されており、この地位もまた裁量によつて変更される余地はなく、耕作者の権利でもある。従つて、原告は本件決定によつて、右の売渡をうける地位、権利を直接に侵されたものであり、もとより本件決定は抗告訴訟の対象となる行政処分である。

従つて、原告の本件訴は適法である。

(5)  井上昌子は本件農地を取得した当時は尼崎市常松に居住していたが、昭和二五年四月四日訴外井上昌五郎と結婚し、以来大阪府高槻市に居住し現在に至つている。

なる程被告主張(4)のような住民登録、家屋購入、昌五郎の尼崎市内からの通勤の事実はあるが、それは仮装のものであり、ただ買収を免れる目的だけのためになされたものである。

本件農地が原告の買収手続の請求がなされるまで九年間も買収されないでいたことについて、井上昌子の父が原告の右請求の当時被告の会長であつた事実に注目すべきである。被告は原告の請求に対し、一ケ月後の昭和三四年一〇月一九日に委員会を開き、住所等については慎重な討議を要するとして決定を保留し、同年一二月一八日には原告の内容証明郵便による督促をうけながら、翌年四月一八日になつて漸く本件決定をしたのであるが、その間に右のような住民登録、家屋購入等がなされているのである。これは、被告が慎重な検討を口実にして、決定を引延ばし、その間に井上昌子に右のような作為をさせたものであり、井上昌子は買収を免れるために故意に在村を装うものなのである。しかも、井上昌五郎は高槻市内に先代以来の家屋を所有し、そこに居住する老母トミを扶養しており、長女雅代はいまだに高槻市内の小学校に通学させているのである。

このように、本件農地は長期間にわたつて固定的確定的に「所有者の住所のある市町村の区域外にある小作地」であり、しかも井上昌子の住所の復帰は仮装であり、買収を免れる目的だけでなされたものであるから、たとえ、現在においては形式的に井上昌子の住所が尼崎市内にあるとしても、一時的に区域外に出ていた者の住所の復帰が正当な理由によるもので又区域外移転の際にもその復帰が予期されている場合と異り、依然として買収手続の対象となるべきものである。もし、本件の場合に買収手続がなされないということになると、不在地主は一片の住民登録で買収を免れることとなり、耕作者に安定した地位を与えるために「農地の取得を促進し」「その権利を保護」しようとする農地法の精神はふみにじられることになる。

三、被告の主張

(1)  原告主張(1)の事実は(原告の小作開始の時期を除き)認める。

(2)  原告が原告主張(2)のとおり被告に対して本件農地について買収手続をとるよう請求したこと、被告が原告主張(1)の日に、右買収手続をとらない旨の本件決定をし、その決定内容を書面で原告に通知したことは認める。

(3)  しかし、原告の右請求は、法規上に根拠をもたない単なる職権発動の陳情に過ぎず、それに対する本件決定も法規上の規定に根拠をもたない被告の内部的な決定にとどまるものであつて、原告に送付された書面は右の被告の内部的陳情処理の結果の事実の通知に過ぎない。そして他面において、本件決定は、原告の既得の権利、利益に直接具体的な侵害を生じるものでもなく、原告に直接に具体的法律効果を及ぼすものでもない。しかも、本件決定が取消されたとしても、原告に利益を与えることにはならないのである。

従つて、本件決定は抗告訴訟の対象としての行政処分たる性格を欠くものである。

よつて、原告の本件訴は不適法であり、却下されるべきである。

(4)  仮に、本件訴が適法であるとしても、井上昌子は昭和三四年九月より尼崎市栗山字屋敷田一二〇の二に住民登録をし、同所に夫昌五郎ら家族と共に居住し、更に同三五年四月一四日に同市西富松字北河原三九に家屋を購入して一家転居し、昌五郎はすでに昭和三四年八月頃から西宮市所在の新明和工業株式会社機器製作所に通勤しているなど、尼崎市の市民としての生活の本拠を尼崎市内にもつている。従つて、井上昌子は昭和三四年九月以降は在村地主であり、本件小作地は農地法六条一項一号に該当しない。

また、井上昌子が従前の高槻市から尼崎市内に住所を移したのは、夫昌五郎が勤務先の前記会社布施工場から、昭和三四年八月二六日付人事異動によつて前記西宮市所在の機器製作所に転勤するなど、その他家族の都合上、もと井上昌子の住所のあつた尼崎市内に転居して来たものであつて、本件農地の買収を免れるためのものではない。

(5)  農地法は九条による農地買収を行うについて、同法八条によつて公示をするとともに、農地所有者に通知してその期間中所有者に自発的な農地の所有権移転の機会を与え、所有者がその期間内に処分をしない場合に始めて買収ができる旨規定しており、しかも右期間は延長することも許されているのである。これは結局農地所有者の納得の上で買収処分をするということであり、およそ、自作農創設特別措置法のような強制買収と趣きを異にしている。しかも、農地法には自創法六条の二の一項の遡及買収の規定を欠き、地主が形式的に住所を移転して来た場合にも、その農地を農地法六条一項一号に該当するとみなして処分をしなければならないとする旨の規定もない。

これらの点からみても、農地法の建前は自創法のそれと異り消極的なものなのである。

従つて、本件決定は適法である。

よつて、原告の本訴請求も失当である。

四、証拠<省略>

理由

被告は、(一) 本件決定は原告の本件農地について買収手続の開始を求める申立に対してなされたものであるが、右申立は法律上の根拠のないもので、職権発動を促す単なる陳情に過ぎない、(二) 本件決定は行政機関内部の事実的な意思決定に過ぎない、(三) 本件決定は原告の具体的権利に影響するものではないと主張して原告の本件訴が不適法であると争うが、確かに、原告の申立には法規上の根拠はなく、また、本件決定は原告を名宛人とするものでないという意味では内部的決定であるといわねばならず、また本件決定によつて原告の「権利」が侵害されたとはみられないかも知れない。しかし、もし、本件農地が原告主張のとおり農地法六条一項一号の小作地であり、また同法七条の所有制限の例外にならないとすれば、当然買収手続をしなければならず、そして買収手続が開始されたならば、原告が同法三六条一項一号に該当する限り、国が買収後に売渡す場合は原告に、井上昌子が同法九条一項により他の者に譲渡する場合でも同法三条二項により原告もしくはその世帯員の所有に帰することとなるのであつて、その例外はありえない。そして、その限りにおいて、原告は買収手続がなされるかどうかによつて重大な利害をもつのである。そして、買収手続は被告の決定のみによつて開始されるのであつて、被告以外にその権限をもつ機関は存在しないのであるから、被告の本件決定によつて、原告の右の利益は、もし前記の諸前提が充足されるならば、違法に侵害されることとなるのであるから、原告はこれを抗告訴訟の対象として取消を訴求できるとみるべきである。従つて、被告の主張する右の諸点をもつてしては、直ちに本件訴が不適法であるとみることはできないと考えねばならない。

しかし、右の点は暫く措くとしても、証人井上ミト、井上幸子、松本茂、井上昌五郎、原告本人の各供述によれば、訴外井上昌子は、少くとも現在は形式上単に住民登録を移したというだけではなく、実質的にも尼崎市内に家族とともに現に居住しており、その居住の態様も、居住家屋を購入し、子供の一人は尼崎市内の学校に通学させているなど、客観的には、もはや一時的仮装的なものといえないものであることが認められ他に右認定を覆すに足る証拠はない。そして右認定事実によれば、井上昌子は現在、尼崎市の区域内に生活の本拠を持つていると判断しなければならない。

小作地の所有者が、その小作地の所在する市町村の区域に生活の本拠をもつ場合には、たとえ、それが農地買収を免れる動機目的によるものであつても、農地法六条一項一号の所有禁止の対象にはならないと解すべきである。それは、買収を免れる目的のためだけで区域外への住居移転を差控えるのも、区域内に住所を移転して来るのも同様である。同条項の適用の消極的要件としては少くとも現に法律的に生活の本拠であるとみられる(勿論、一片の住民登録だけでは不十分であろう)住所が小作地の区域内にあれば十分であつて、同条項の禁止が、右の要件をととのえる小作地所有者の内心の意図動機まで考慮して、その禁止を及ぼすものとは考えられない。勿論買収を免れる目的だけで、住所の転出も避け、あるいは住所を転入させることは道義的には問題であろうが、それは法律の干渉する領域の外にある。

従つて、本件決定当時において本件農地が買収されるべきであつたとしても、現在、井上昌子に対して本件農地の買収処分をすることはできないのであるから、たとえ本件決定を取消したとしても、もはや、その実益は全く失われているというのほかはない。それは結局、その余の判断をまつまでもなく本件訴に訴訟条件としての訴(取消)の利益が欠けるということに帰する。

よつて、原告の本件訴を却下することとし、訴訟費用負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 原田久太郎 桑原勝市 米田泰邦)

(別紙目録省略)

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